TAB 多読 -tadoku and beyond!-  

いっぱい読んでたっぷり聞けば、英語はかって出てきます!

  

2013/04/14

不毛な議論②


批判ばかりするのはよくないですね。自分の意見も述べておきます。「英語の授業は英語で!」という方針をどう思うか。

何とも思いません。
It doesn't matter much to me... って感じ。

それよりも重要なのは、

「生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,授業を実際のコミュニケーションの場面とする」

ことです。これができれば教員が日本語で話そうが英語で話そうがスペイン語で話そうが関係ありません。(というか、教員が話す時間は少なければ少ないほどいい。)

英語が使えるようになるためには、「使う」しかないのです。使って使って使いまくる。それが大事。その意味では指導要領の上の部分には100%同意しますよ。

でも、そんなこと日本の教育環境で許されますか?許されません。日本の教育現場は「間違いを正す」場になってしまっています。間違いだらけの英語を使うことは許されないのです。そんな状況で、生徒が英語使うわけがない。使おうとすればするほど間違えて減点されるからです。

生徒が書いた英語を見て教員がこんなことを言います。「文の最初が大文字ってことも知らない。」「be動詞も正しく使えない。」「過去形使わずに、全部wasつけて済ませてる。was goとか書いてるんですよ。信じられない。」

定期テストで自由作文の問題を出すと、「文法ミスはマイナス1点」「大文字じゃなかったらマイナス1点」「スペリングミスはマイナス1点」「ピリオドがなかったらマイナス1点」ということを本気で議論しています。書いた内容がどうかというのはほとんど話題になりません。だから、「使えば使うほど減点される。」のです。

(ちなみに私は高1~高2では、「書いてオレに意味が伝わった語数分を点にする。」という方針でやってます。高3になったら、内容や構成等も考慮します。)


「『できない部分を指摘する』テストから『できるようになったことを明らかにする』テストに改善する必要がある。動機付けのためにも授業やテストにおいて、子どもたちに小さな成功体験を重ねさせることが英語教育に求められており、その趣旨は新学習指導要領にも反映されている。学習者を大切にした英語教育改善になっている」

と言っています。「小さな成功体験を重ねさせる」という部分は本当にその通りだと思います。これは、こどもにスポーツや楽器を教えるときも同じ。ボールがバットにあたった!相手のグローブにボールを投げることができた!あの曲のイントロが弾けた!こういうことって、めちゃくちゃうれしいですよね。そういう体験をたくさんすれば、外国語がどんどん面白くなります。面白いからどんどん使う、使えば使うほどうまくなる。うまくなればもっと使う。もっと使うからもっとうまくなる。という、いい循環が生まれます。

でもね、こういうこというんなら、入試の英語は全て廃止させないとダメでしょう。

「『できない部分を指摘する』テストから『できるようになったことを明らかにする』テストに改善する」

これ完全な詭弁でしょ。テストはテスト。要するにテストの結果を判断する側(要するに学校当局ね)が、「できない部分」に注目するか、「できた部分」に注目するかの違いです。結局、テストをして、その結果を「成績」や「入学許可」に使っている以上、こんなこといくら言っても何の意味もないのです。

「その趣旨は新学習指導要領にも反映されている。学習者を大切にした英語教育改善になっている」

「なっている」って...学習指導要領は単なる書類です。その文言を変えたくらいで「改善になっている」とはどういうことでしょうか。「改善につながる」ならまだわかりますが。文科省は学習指導要領の「趣旨」が改善につながるための努力はしているのでしょうか。

大学入試が変わらなければ英語教育も変わらない、という現場からの指摘に対しては「大学入試問題はどんどん変化している。知識を問う問題からコミュニケーション能力を測る問題にシフトされつつあるが、それに気付いていない高校も多い。過去問中心の受験勉強では苦労のわりに学習効果は少なく、生徒が気の毒」と、「受験英語の思いこみ」に注意を促した。

大学入試問題の傾向が変わっていることは確かです。ただし、「コミュニケーション能力を測る問題」は言いすぎでしょう。そこまでは行っていません。そもそも、コミュニケーション能力なんて筆記テストで測れるのでしょうか?また、測れるとしても、それを正しく採点できる人材が大学側に十分いるのでしょうか。絶対いません。

また、「生徒が気の毒」とも言ってますが、実際現場の教員は、合格できるための力をつけさせようと思っています。「過去問中心の受験勉強では苦労のわりに学習効果が少ない」というのであれば、コミュニケーション中心の「受験勉強」の方法を具体的に提示し、もしそれが失敗したら責任をとるくらいの覚悟も示さないといけないでしょう。違いますか?

特に進学校の教員は、新しいことをするのはすごく勇気が必要です。新しいことをして、もし受験に失敗する生徒が続出すれば批判されるのは教員です。前と同じことをやっていて失敗する分には「生徒の努力が足りなかった」で済みます。だから、やり方を変えるのは大変な勇気と、絶対に成功するという自信がなければできません。そして、生徒も保護者もその方針を理解しついてきてくればなければいけません。

コミュニケーション重視の学習が受験にも効果があるというのは私も同意します。しかし、生徒や保護者に理解してもらうのは非常に難しい。その部分でも文科省としてサポートしなければならないでしょう。一方的に現場の教員を批判する資格は文科省にはありません。

(実際私も「塾の先生にそんなやり方していたら受からないと言われましたが大丈夫ですか。」と何度も言われたことがあります。私は、「塾の先生を信じるなら俺のいうことは聞かなくていい。内職していても構わない。それで成績を下げるようなことはしないから。ただし大学落ちても俺のせいにはするな。」と言うしかありません。)

まずは、文科省が作成している「センター試験」がいかにコミュニケーション能力を測っているかを証明してください。その上で、センター試験で高得点とるためには、どのような「コミュニケーション活動中心」の授業を展開すればよいかも提示してください。

間違っても、「それは現場で工夫しろ。」とは言わないように。そんなこと言ったら本気で怒りますよ。

「言語習得は、曖昧さに耐えながらその曖昧さを減じていく営み。日本人は英語ができない、と思い込みすぎではないか。その思い込みは、これまでの高等学校現場での英語教育が、文法を知識として身に付けさせることと、訳読することを中心にしてきたことが原因。いまだ、かつてのラテン語教育と同じ手法(文法訳読)を使っている高等学校も少なからずあり、読解はできるが、音声面での習熟が全くできていない生徒を生み出すという実態がある。英語をコミュニケーションの手段として活用する能力を身に付けさせることができていない。この点を抜本的に改善することが、日本の英語教育に強く求められている」

「曖昧さに耐えながら」の部分は同意。この論文にも、第二言語(外国語)学習支援の「原理(Principle)」の1つとして、"PROMOTE AMBIGUITY TOLERANCE(曖昧さに耐えることを促進する)"が挙げられています。

また、「日本人は英語ができない、と思い込みすぎではないか。」も同意。拍手したいくらいです。私は「日本人は英語ができる!」と思っています。できないと思わされてるだけ。そう思わせてるのは「英語ムラ」です。「これまでの高等学校現場での英語教育が、文法を知識として身に付けさせることと、訳読することを中心にしてきたことが原因。」はい、これもその通りです。高等学校の教育現場も、英語ムラ3丁目にあります。

しかし、「文法訳読中心」で学習してきて、「英語が使えない」と思い込まされている生徒が、センター試験で高得点を取っているのも事実です。センター試験が、学習指導要領を反映しない無責任なテストと言わざるをえません。

以前文科省は、「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想」を策定しました。(この記事も参照。)これ、裏返せば「日本人は英語が使えない。」って言ってることと同じでしょ。結局、私から言わせれば文科省だって「英語ムラ」の中にあるのです

あれ?結局批判になってしまいました。
ちょっとフォローもしときます。

太田氏自身は本気で生徒のことを思っていますし、本気で日本の英語教育をよくしたいと思っている人だと、実際生でお話を聞いて強く思いました。また、引用させてもらった文章も、本人の発言を誰かが「編集」しているでしょうから、そのまま批判するのは筋違いかもしれません。

しかし、文科省として学習指導要領をつくっている以上、現場の教員として批判は遠慮なくさせてもらいます。太田氏はいろんなところで講演をしています。ぜひみなさんも一度直接お話を聞いてみてください。(あんまフォローになってないね。)

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